マルタとマリアは聖書に登場する姉妹です。マルタはマルタ島の語源でもありますが英語ではマーサと発音するようです。マリアはマルタの妹です。聖書では、彼女たちがイエス・キリストを家に迎え入れた時の行動の違いが描かれている箇所があります。マルタは忙しく接待し、マリアはイエスの話に聞き入っています。
マルタとマリアの姉妹

聖書の箇所から読み取れるのは、イエスとの関係の大切さです。
もちろん、信仰における生活・活動と、祈りのバランスや、奉仕活動が軽視されるわけでもなく、大切なことは言うまでもありません。
- マルタ
イエスを家に迎え、おもてなしのために忙しく動き回ります。 - マリア
イエスの足元に座り、話に聞き入ります。 - イエス
「マリアは良い方を選んだ」と言い、マルタをたしなめます。
こうしてみると、
イエス様はマルタを否定したのか?
たぶん、そうではありません。マルタを否定するということは、貧しい人に奉仕しているひと全員を否定することになります。
こういう、理解しがたい問題が起こったり一見矛盾しているようなことを理解したいときは、すこし俯瞰(ふかん)してみるといいです。
よく考えてみれば、否定したのかどうなのか?という問題ではないことにきづけるはずです(マルタとマリアどちらが良かったかという二元論でもなく)。
イエス様は、「マルタ、忙しくて本質を忘れてしまっていませんでしたか?」と、問いかけているのだと思います。
奉仕と祈りの中にある大切だけど忘れがちなこと
奉仕も祈りや黙想も、イエス様に向かうための行動に違いありません。マルタのようについつい忙しくしていると、「もう、同じ家にいるんだからおねえちゃんのこと、てつだってくれてもいいのに」といいたくなるものです。
マルタと同じく、大切だけど忘れてしまっていることがあります。それは、
イエス様のこと。
たしかに、イエス様をもてなすための活動だったのですが、忙しいとついつい、拭き掃除や料理の準備や、洗濯や、配膳に気を使ってしまいます。
本当に大切なことは、奉仕をふくめたすべての活動の中でも「神の言葉に耳を傾ける」ことなのでしょう。そうすると、
内面的な充実
を得られます。内面的な充実を得るため、人によっては「座禅」をしたり「ロザリオ」を唱えたりします。それはそれで構わないですが、それが目的になってしまうと本末転倒になってしまうことがあります。
祈ることですら、神の言葉に耳を傾けるという目的を失うと、むなしいという意味です。
その次元に達しているわけではないですが、私の場合も、忙しくて目的を忘れていることがよくあります。たとえば、
- 仕事は現場にあると意気込んで仕事をしていると、ついつい簡単な掃除とかだれでもできる片付けに追われていることがある
- そういえば、気が進まない市役所への申請作業(超重要)の前にかならず机の上を片づけて、なかなか始めることができない
- 会社のためにと思って始めた作業が、いつまでも自分一人に押し付けられているので、「もうやってられない」という雑な気持ちになってしまう
私の例は、会社と私の関係ですが、最初は「会社のため」と思って始めていながら最終的に「いやだな」「やってられないな」にかわることがあります。
まったく、内面的な充実には至っていないですね。
マルタとマリアの姉妹から学ぶ、大切だけど忘れがちなこと
同じように、マルタとマリアの話し。こちらは、生活や奉仕の中にあるイエス様でした。
彼女たちは最終的に、イエスとの関係を深めることが、信仰生活において最も大切であるとを教えています。
聖書を読む、ロザリオを唱える、食事の前にお祈りをする、他人にやさしくする、奉仕する、社会貢献する。仕事をすることも含めて、イエス様との関係を深めることが大切だったのに忘れていました、ということを先日の聖書朗読から思い出したのでした。
ところで、イエス様との関係を深めることが、そんなに大切なことなのでしょうか?この疑問についてはまた後日、別記事にしたいと思います。