自己紹介

自己紹介
カナダバンクーバー

小学生のころは、田舎育ちに珍しく塾通いしていました。最初は珠算教室だったのが、いつのまにか進学塾に。その塾の先生と親が喧嘩したらしく、ある日突然、別の塾に行くことになりました。親が塾の先生と喧嘩したことは中学校になって友人に聞いて初めて知りました。

新しい塾は共産党の町会議員さんが先生でした。小学校の勉強に追いつくための学習塾で、進学塾からきた私は、そこでは神童扱いを受けました。

この先生のことは、今でも尊敬しています。

当時はよく、となり町の本屋に連れて行ってもらって、学習参考書、問題集をいっしょに買ってもらいました。

朝日新聞小学生図鑑

参考書のほかに、朝日新聞小学生図鑑もありました。そこには社会のことが詳しく書かれていました。『週刊こどもニユース』のお父さん役、池上彰さんが詳しく解説するような内容で先生が社会のことを解説してくださいました。

小学校の卒業文集に『政治家になりたい』と書きましたが、その夢はかなえられていません。今から考えると、政治家になりたかったのではなくて、その先生になりたかったのかなと思います。出会えたことに感謝しています。

中学受験、失敗

中学校・高校は進学校へ進学しましたが、勉強しなくても勉強できた小学校時代の甘い生活がたたって、成績は208人中207番くらいでした。ココでも、呑気なことに「下には下がいる」ことに気を良くしていました。

大学はエスカレーターで行ける大学でした。

大学で社会福祉を勉強しました。が、すぐに飽きてしまって、留学したくなりました。今思うに、

一発逆転の簡単に実施できる方法を考えることが好きな性分なのでしょうか。今でもそうかもしれません。

グループホームでの大切な出会い

20歳の頃、カナダのグループホームにボランティアワーカーで住み込み生活をはじめました。ちょうど日本人スタッフが1人在籍していて、いろんなことを教えていただきました。おかげで1年間過ごすことができました。彼女に教えていただいたことは、どちらかというと彼女の周りにいた人たちから教わったことでもあります。

  • 仕事をがむしゃらにやると迷惑をかけることもある
  • カナダの自然のすばらしさ
  • 寂しい日本人、日本人同士のつながり

大学に復学して残り2年を何事もなく過ごしたわけではありません。卒業する年にもう一度カナダへ、今度は社会福祉の実習単位として訪問させていただきました。

実家の家業に滑り込みセーフ

大学を卒業したあとは、就職活動していなかったので、実家の家業を継ぎました。電気工事や工場で使うコンピューター制御のプログラミングを学びました。

父からリレー制御や電気のイロハ、プログラミングを教わり、この世界では県内一の実力があると思えるところまできました。

お盆や正月は工場の設備更新工事で出張していました。ちょうど5年目の頃です。工事の発注主は自動車メーカーで、工事の元請けがいて、設計図をかく下請けがいて、その下請けに設備屋さん、配線屋さん、電気屋さんがいます。私はプログラミングを任されている電気屋さんでした。

設備工事の仕切り役にあこがれる

設備の設置が終わり、電気配線も終わり、あとはプログラミングだけなのですが、機械がうまく動かないことがよくあります(一発でオッケーが出たことは一度もありません)。

その都度プログラムをなおして、機械を動かして、『もう少しこうしてくれる?』と言われて、またプログラムを直しての連続です。

明け方3時頃に『今日は終わりにして、また明日やろう』ということになります。

その明け方2時頃のことだったと思います。私のせいでみんなが足止めを喰らっていたとき。缶コーヒーを片手に『どう?一服したら?』まるで缶コーヒーボスのコマーシャルみたいに毎回やってくるおじさんがいました。

営業マンに転職するきっかけ

その方は、元請けから設計を任されている元塗料会社の営業マンです。

発注主自動車メーカーにも、工事で招集されている設備屋さんや機械屋さん、電気屋さんにも専門的な話しができる人でした。元請けのおじいちゃんが自動車メーカーに打ち合わせで行くときは必ず同行していました。

その日の午前2時に缶コーヒーを渡されたときに、私は気づいたのです。『電気屋さんだけではだめだ、世の中を渡り歩くには、ビジネスが理解できていないといけない』

それから、数ヶ月して、私は父に断りを言って東京に向かいました。表向きは『結婚するから』と説明していました。

半年後に結婚して今も続いています

新宿駅のバスターミナル(バスタ新宿はまだなかった)を出て小田急の地下にリクルートのオフィスがありました。そこで面接やら適正試験を受けて、何日かしたら3社紹介があり、そのうちの最初の会社に就職が決まりました。

この会社には30年居ました。心臓専門の医療機器代理店でした。心臓専門というと循環器内科と心臓血管外科のことです。代理店というのは、医療機器メーカーから医療機器を仕入れて病院に販売する会社のことです。

医療業界が人気の業種になっているけど

医療業界を簡単に紹介しますと、

  • 製薬会社
  • 医療機器メーカー
  • 医療機器代理店
  • 総合商社
  • 専門代理店

があります。

医療機器の専門代理店は、メーカーよりも製品のことを詳しく知っていないと存在意義がありません。

たとえば心臓専門の医療機器代理店だと、心臓ペースメーカーや人工弁のことを医療機器メーカーの担当者と同じくらい知っていて、担当病院の心臓外科医師や看護師、用度係(物品購入の担当係)、医事課(保険請求の窓口)や病院長とも接点が必要です。

この会社で、トップセールスを記録したこともあります。

が、最後は限界がわかったので辞めました。

収入が半分以下に、いや3分の1かも

いまが、そのフェーズなのですが、収入ががた減りしてしまい、それが一番の心配の種になっています。

しばらくの間忘れていられるのは、30年勤めた会社から出た退職金のおかげです。老後の資金を今使っているだけなので、問題解決したとは言い難いです。

現在は、木工作業所のようなところにいます。就職したのはNPO法人です。この法人の代表者は兄です。前職時代、兄に頼み込んで就職させてもらったのでした。

何をやりたいのか、考えている最中です。ブログで紹介している記事は、私の今を紹介したものです、

それは紛れもなく、私の現状、すなわち試行錯誤の跡です。

このブログがいつまで続くかはわかりませんが

試行錯誤し、選択した道を毎日感謝という形で記録しています。ブログでは本名を明かしていませんが、ファンができたらうれしいです。

このブログの特徴は、

  • 文字やデザイン、修飾は最小限にとどめています
  • 毎日リアルタイムで記事を追加します
  • 写真や動画は自前で用意していません
    ※アイキャッチ画像は探してきたGIFにしています

それでは、また明日お会いしましょう。