人間の死を考える東野圭吾さんの小説「人魚の眠る家」。父親は脳死の娘に横隔膜ペーシングで自発呼吸させます。なぜか、怖い感じがします。母親は人工呼吸器なしで呼吸しているのを喜ぶのですが、生きているのか死んでいるのかを周りに押し付けていたことに気づきます。夢の中で子どもが別れを告げた場面で泣けます。私の涙腺崩壊です。


横隔膜ペーシングの人魚の眠る家

めぐ
どんな映画でしたっけ?

観てない方のために、予告編動画を掲載しておきます。雰囲気だけでもどうぞ。

「人魚の眠る家」小説

めぐ
読んでみます!

原作はこちらです。小学生の女の子がプールで溺れるのですが、心臓が動いていても意識は戻らないといわれます。いわゆる脳死の状態です。ここで、家族が納得できるかというと、全く納得できないわけです。

脳死でも体が動く事があります。そういうところを目のあたりにすると、娘はやっぱり生きていると信じたくなると思います。娘を連れて帰って自宅での介護(看護?)が始まります。

横隔膜ペーシングは「死んでいるけど生きている」のか

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死んでいるって言われたくない

逆の目線ですが、生きているんだけど「死んでいる」と言われたら、やっぱり私はイヤです。以前だったら、それでもいいと思っていましたし、「殺してほしい」とも思っていました。

死んでいるけど生きていると言われたら、ひょっとしたらうれしいかもしれません。これはラストシーンで娘が母に挨拶した場面をみていただければ、理解できるかもしれません。ここは、おもいっきり泣けますしね。

脳死と移植医療

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心臓移植はあまり進んでいませんね

脳死というと移植医療が連想されます。脳死を人の死として定義して、心臓が動いていても臓器提供できるしくみです。これも違和感を感じる人が多いかもしれません。特に娘をなくした親にとっては。しかし、これもラストシーンできれいにまとめてくださいます。

なんと、心臓移植を受けて生きながらえている人が登場します。気持ちの持ち方によっては「無駄な死ではなかった」と思える場面です。そこまで気を使ってストーリー作りをされていることに感心します。

脳死を扱った人魚の眠る家

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屋根瓦がウロコみたいでした

人魚の眠る家は、どう考えてもこの家族が住んでいる家のことです。ではなぜこの娘を人魚にたとえたのでしょうか。まずはプールでの事故だったことがあります。それから、人魚姫の物語(アンデルセン)を読み返してみるとわかりますが、最期は泡になる人魚姫とかぶるところがあります。それから、ナイフで心臓を一突きというエピソードも。

あまり深掘りしたくないですが、「魔女にお願いして人間にしてもらった」人魚姫と、似ているかもしれません。機械で生かされている様子が、ですね。

横隔膜ペーシングと自然な死

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自然な死を望みます

医学は発展しているのですが、自然な死が再び受け入れる世の中になってきました。チューブや管につながれた延命治療を望まない本人や家族が増えています。

映画の中では電気信号で娘の仕草をプログラムするようなサイコな場面があります(本当はかわいい仕草なのですが、死体だと思うと怖いです)。そこまでしていいのか?という問いかけが背景にあると思いますが、障害を助けるあらゆる装置を一緒に否定してほしくないというのが、私の感想です。

家族の思い

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別れを認めたくない気持ち、わかるわ

娘を車椅子に座らせて外出する場面があります。周りの人に「娘は水の事故でずっと眠ったままなの」と紹介しています。私もそうするかもしれないです。娘が私に見せたかった場所へ二人で訪れるのですが、そこで娘への愛しさが私の身を貫くことでしょう。

「この子を刺して心臓を止めたら私が殺したことになるのか法律で決めてもらう」と母親が叫ぶ場面もあります。別れを認めたくない母親の気持ちが一気に吹き出した場面です。ただ、その思いは、まわりに押し付けていたのではないかという気付きに変わります。

生きていてほしい気持ちの押しつけ

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死んだように生きてきた、私

息子が「友達は呼んでいないよ」という場面で母親はハッと気づきます。「生きていると信じているのは、私だけだったのかも」その気持を周りに押し付けていたのかもしれない。

逆の目線でも書いてみましょうか。「死んでいると思っていたのは私だけかもしれない、その気持を周りに押し付けていたのかも?」なんのことだか、分からない人は私のブログをもう少し読んでみましょう。あ、いや、東野圭吾さんの「人魚の眠る家」を読んでみるといいかもしれません。

サイコな道具としての横隔膜ペーシング

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無いと困るものもあります

横隔膜ペーシングがサイコな道具の一つとして登場します。横隔膜ペーシングは人工呼吸器で生きていくよりもはるかに生活の質をあげられる装置です。ですので、決してサイコだとは思わないでいただきたいです。

「そこまでして生きたいと思っているのですか?」なんて質問もしないでください。逆です。人工呼吸器がないと死んでしまうのです。横隔膜ペーシングがないと死んでしまうのです。

脳死の延命治療

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心臓が止まるまで治療することもあります

興味本位で調べてみましたが、脳死でも延命治療はあります。

脳死状態になってからの、心臓を動かし続ける延命治療は長くは継続できず、数週間以内に必ず心停止、つまり死亡します

脳神経外科 教授 ・脳死判定臓器移植委員会委員長 柴田靖先生

とのことです。延命治療はありますが、いつまでも人工的な延命治療を維持することは難しいようです。

脳死と植物状態は違う

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植物状態はやっぱりあるのね

同じところに、同じ人が書いている内容ですが、

脳死と植物状態は違います。植物状態は大脳に損傷があり、意識が障害されていますが、脳幹は機能しています。よって、自律神経は機能しており、栄養を与え、合併症を起こさないようにケアを行えば、何十年でも生存できます。よって植物状態では死亡とも脳死とも診断できません。

脳神経外科 教授 ・脳死判定臓器移植委員会委員長 柴田靖先生

なのだそうです。「人魚の眠る家」の娘は、ひょっとしたら植物状態に近かったのかもしれません。

脳死から移植医療

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実は、あこがれています

脳死判定が必要となるのは、臓器移植のためには心停止後よりも、心停止前の方が、移植に適した臓器が得られるからです。

脳神経外科 教授 ・脳死判定臓器移植委員会委員長 柴田靖先生

これまた、同じ人が同じところに書かれた文章を抜き出しました。移植医療のためには脳死判定が必要という意味です。

私はそれでいいと思います。私の臓器が誰かの役に立ったり、私の一部がどこかで生をまっとうしてくれれば、なにかあったかい気持ちになれると思います。

まとめ|横隔膜ペーシングの人魚の眠る家

我が子が「脳死」と判定されたら、その場で私は臓器提供を判断できるでしょうか。たとえ臓器提供カードに本人が全て提供◯(マル)していたとしても、親として判断できないかもしれません。

自分自身の死を受け入れることは簡単なのですが、家族の死は受け入れることは難しいものですね。

医療は発展しています。シンプルな「自然に逝かせてください」という希望が世の中でも増えているのはわかりますが、いざというときはどうなのか私自身わからないのです。

めぐ
それでは、またね
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