小雨がしとしとと降る、梅雨の合間の日曜日だった。私は当時三〇歳。人生の大きな節目を迎えようとしていた。結婚。その二文字が、私を期待と不安の狭間で揺れ動かしていた。隣には、二歳年下のタダシが座っている。今日、私たちは私の実家へ、結婚の挨拶に赴くのだ。

実家に向かう電車の中で、私は何度も深呼吸を繰り返した。父を納得させる方が難しいだろう、漠然とそう思っていた。亭主関白な父は、私が選んだ相手に対して厳しい目を向けるに違いない。しかし、それ以上に、母の視線の方が、私には重く感じられていた。表向きは私の味方をしてくれるだろう。けれど、内心ではきっと、タダシを吟味し、反対する材料を探しているに違いない。そんな予感が、私の胸の奥に澱のように溜まっていた。

実家の最寄りの駅からタクシーに乗り込むと、見慣れた住宅街の景色が窓の外を流れていく。心臓の音が、少しずつ大きくなっていくのを感じた。そして、慣れ親しんだ我が家の玄関が見えた時、私はごくりと唾を飲み込んだ。

チャイムを鳴らすと、すぐに母が出てきた。いつものように優しい笑顔で「よく来たわね」と私たちを迎え入れてくれる。父は、リビングで新聞を読んでいた。私たちが部屋に入ると、新聞をたたみ、無言で私たちの方を見た。その視線に、私は背筋が伸びる思いがした。

昼前に始まった挨拶は、思ったよりも和やかに進んだ。父は、タダシの仕事や家族構成についていくつか質問をしたが、それもごく一般的な内容だった。タダシも、緊張しながらも真摯に答えている。母は、相槌を打ちながら、時折私に目配せを送っていた。その目は、「これでいいの?」と問いかけているようにも、「頑張りなさい」と励ましているようにも見えた。

昼食は、母が腕によりをかけた手料理が並んだ。食卓には、煮物、焼き魚、茶碗蒸し。どれも私が小さい頃から食べ慣れた、懐かしい味だ。母は「大したものじゃないけど」と言いながらも、私たちが料理を口にするたびに嬉しそうにしていた。

食事が終わると、リビングでのおしゃべりの時間になった。母が淹れてくれた、香りの良いコーヒーと紅茶。私は紅茶を選び、タダシはコーヒーを頼んだ。母はニコニコしながら、あれやこれやと話題を出し、話をつないでいた。幼い頃の私のエピソードや、学生時代の思い出話。そんな話を聞きながら、タダシも少しずつ打ち解けてきたようだった。時折、冗談を言っては、父や母を笑わせていた。

その様子を見て、私は安堵した。これで、きっと大丈夫だろう。父も母も、タダシのことを気に入ってくれるに違いない。

けれど、私の安心は、まだ早かった。

話が尽きることなく続き、時計の針はいつの間にか午後七時を指していた。ずいぶん長い時間、お邪魔してしまった。そろそろ帰る時間だと私が切り出そうとしたその時、母が穏やかな口調で言った。

「タダシさん、一つだけお聞きしてもいいかしら?」

その言葉に、私たちは思わず顔を見合わせた。何だろう。少し嫌な予感がした。

母は、それまでとは打って変わって真剣な表情で、タダシの仕事に対する考え方や、将来の展望について、深く踏み込んだ質問を始めた。それは、まるで面接のような、鋭い問いかけだった。私が知る母とは違う、有無を言わせぬ迫力があった。

タダシも、最初こそ戸惑っていたようだが、やがて真剣な表情で質問に答え始めた。彼の言葉は論理的で、誠実だった。けれど、母の表情は変わらない。彼女の質問は、さらに奥深くへと踏み込んでいく。彼の内面、価値観、そして私との関係性についてまで、深く掘り下げようとしているかのようだった。

その時、私は確信した。母は、最初からタダシのことを疑っていたのだ。表向きは私の味方をしていたけれど、内心では、私が選んだ相手が本当に私にふさわしいのか、見極めようとしていたのだ。そして、その判断材料を探し、今、それを突きつけている。

父は、その間、黙って私たちの様子を見守っていた。彼の表情からは、何も読み取ることができなかった。

ようやく、挨拶の時間が終わった。私たちは、長い一日を終え、実家を後にした。電車に揺られながら、私は疲労感と、言葉にならない複雑な感情に包まれていた。

数日後、母から電話がかかってきた。

「あのね、たみ。お母さん、やっぱり彼はお勧めしないわ」

予想通りの言葉だった。それでも、私の心には、鉛のようなものが沈んだ。母は、私が気づかないような彼の欠点や、将来への不安要素を、いくつも挙げていった。私を心配してのことだとは分かっていた。けれど、その言葉は、私の心を深く抉った。

父にも、後日改めて尋ねてみた。すると父は、あっさりと答えた。

「お前が好きなようにすればいい」

意外な言葉だった。父は、私に多くを語らなかった。けれど、その言葉の裏には、私の選択を尊重してくれる、父なりの愛情が込められているように感じられた。

結局、私は母の反対に耳を貸さなかった。

結婚した後、どうなるかなんて、誰にも分からない。結婚という選択が正しかったのか、間違っていたのか。それは、行けるところまで行ってみなければ、その景色は分からないだろう。そんな思いが、私の背中を押した。

私は、タダシと結婚した。

結婚生活は、静かに始まった。大きな喧嘩をすることもなく、お互いに裏切ることもなく、年月が流れていった。子どもも生まれ、家族が増えた。傍から見れば、私たちはごく普通の、幸せな家族に見えただろう。

けれど、心の奥底には、常に微かな違和感があった。それは、結婚前の母の言葉が、私の心のどこかに根付いていたのかもしれない。

タダシは、決して悪い夫ではなかった。仕事も真面目にこなし、家族を大切にしてくれた。子どもたちのことも可愛がってくれたし、家事も分担してくれた。けれど、どこか、彼との間に見えない壁があるように感じていた。彼の心の内が、私には見えないような気がしていた。彼は、いつも穏やかで、多くを語らない人だった。彼の沈黙は、私には時に、彼の心の扉が閉じられているように感じられた。

私自身も、彼の心の内を探ろうとすることを、いつの間にか諦めていたのかもしれない。衝突を避け、平穏を保つことを優先するようになった。

そして、結婚から十年以上が経ち、私たちは今、静かな別居に身を置いている。

大きな喧嘩をしたわけではない。お互いを裏切ったわけでもない。ただ、ある日、彼が私に言ったのだ。「しばらく、一人になりたい」と。その言葉に、私は驚きながらも、なぜか納得してしまった自分がいた。

彼は家を出て、別の場所で暮らしている。週末には子どもたちに会いに来るし、連絡も取り合っている。世間的には「別居」という形だが、そこにはドロドロとした感情はない。まるで、最初からこうなることが決まっていたかのように、私たちはこの状況を受け入れている。

母のあの時の言葉が、今、私の心に蘇る。

「お母さん、やっぱり彼はお勧めしないわ」

あの時、母は、私には見えなかった彼の本質、あるいは、私たち二人の関係性の限界を、見抜いていたのかもしれない。

私は、あの時、自分の目で見て、自分の手で掴んだ「行けるところまで行かなければその景色はわからない」という信念に従った。そして、その景色が、今、ここにある。

この静かな別居が、私たちにとっての「終わり」なのか、それとも「新しい始まり」なのか。それは、まだ分からない。けれど、あの時、母の反対を押し切って結婚した私の選択は、間違いだったのだろうか。それとも、この景色を見るために、必要な道のりだったのだろうか。

雨上がりの空を見上げると、厚い雲の切れ間から、微かな光が差し込んでいた。

なんでスマホばかり見てるの?

※この物語はフィクションであり、登場人物や団体名は架空のものです。実在の人物とは一切関係ありません。
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