静かな日曜日の朝、まだ肌寒い空気が窓から差し込む。たみは34歳、夫のタダシは32歳。長男のタローは4歳、次男のジローは2歳。朝食を終え、リビングに散らばるおもちゃを片付けながら、たみは今日の計画を頭の中で反芻していた。動物園。あの犬の事件以来、なんとなく心に引っかかっていたことだった。
数週間前、農家の友達の家へ遊びに行った時のことだ。タローは動物が好きだったが、同時に怖がりでもあった。近所の猫や犬でさえ、彼にとっては随分大きく見えて、少しでも近づくと身をすくめていた。友達の家には、庭に繋がれた大きな犬がいた。最初は庭に出ることすら躊躇していたタローだったが、何度か通ううちに、その犬にも少しずつ慣れていった。
ある日、タダシがタローとジローを連れて、その犬の散歩に出かけた。タローは嬉々としてリードを握り、得意げに歩いていた。ところが、突然、犬が何かに驚いたのか、猛然と走り出した。タローは咄嗟にリードを放してしまい、犬はあっという間に遠ざかっていった。タダシは犬を捕まえようと追いかけたが、追いつかない。途方に暮れた三人は、顔面蒼白で友達の家に戻り、事の顛末を報告した。友達の旦那さんが大声で犬を呼びながら走り去り、あっという間に犬を捕まえて戻ってきた時には、たみは心底安堵したと同時に、タローの顔に浮かんだ恐怖の表情が忘れられなかった。
あの出来事以来、タローは動物に対してさらに臆病になった気がした。動物に慣れてほしい。そう願うたみとタダシの意見は一致し、家族全員で動物園へ行くことが決まったのだ。
行き先は、静岡市立日本平動物園。東名高速道路を使い、片道2時間半ほどのドライブだ。車に乗り込むと、タローとジローは後部座席で興奮気味にはしゃいでいた。たみは手作りのサンドイッチと、魔法瓶に入れた温かいお茶、そしておやつをクーラーボックスに詰めた。タダシは運転席で、今日の動物園のパンフレットをちらりと見て、エンジンをかけた。
「タロー、今日はどんな動物に会いたい?」たみが声をかけると、タローは考え込むように首を傾げた。 「うーん……ぞうさん!」 「ぞうさんか、大きいね。ジローは?」 ジローはまだ言葉がおぼつかないながらも、「わんわん!」と興奮気味に答えた。おそらく、友達の家の犬のことが頭にあるのだろう。
高速道路に乗ると、窓の外を流れる景色に子どもたちは夢中になった。雲一つない青空が広がり、絶好の動物園日和だ。たみは、この平和な時間がずっと続けばいいのにと願った。普段は仕事と育児に追われ、慌ただしい日々を送っているが、こうして家族で遠出する機会は、何よりも大切な時間だった。
日本平動物園に到着すると、開園直後だというのに、すでに多くの家族連れで賑わっていた。広々とした駐車場に車を停め、降り立つと、遠くから動物たちの鳴き声が聞こえてくる。タローは、少し緊張した面持ちでたみの手を握った。ジローはベビーカーに乗り、周りの景色を興味深げに眺めている。
まず向かったのは、レッサーパンダのいるエリアだった。小柄で愛らしいレッサーパンダが、木の上で眠そうに丸まっている姿に、タローもジローも釘付けになった。 「かわいいね、タロー」たみが言うと、タローは小さく頷いた。 次に、猛獣館へ。ガラス越しに見るライオンは、想像以上に大きく、威厳に満ちていた。雄ライオンのたてがみが風になびくたびに、タローは目を丸くして見つめていた。しかし、その迫力に圧倒されたのか、たみの背中に隠れるようにして、じっと見上げていた。
「すごいね、ライオンさん」タダシがタローに話しかける。 「お、おおきいね……」タローの声は、少し震えていた。 たみは、彼の小さな手をそっと握り返した。無理に近づけようとはしない。少しずつ慣れていけばいい。そう思っていた。
象のいる広場に着くと、その巨大さに圧倒された。タローもジローも、「おおきい!」と声を上げた。象がゆっくりと鼻を動かし、餌を食べる姿に、子どもたちは目を輝かせた。 「ぞうさん、お水飲んでるね」たみが説明する。 タローは少し離れた場所から、じっと象を見つめていた。怖がる様子はなく、むしろ興味津々といった表情だ。
動物園には、他にも様々な動物がいた。首の長いキリン、ユーモラスな動きをするチンパンジー、そして水の中を優雅に泳ぐペンギン。一つ一つの動物を見るたびに、タローの表情は少しずつ和らいでいった。最初はぎこちなかった足取りも、次第に軽くなっていった。
昼食は、持参したサンドイッチを動物園内の休憩所で食べた。外で食べるご飯は、なぜか格別に美味しい。タローはもりもりとサンドイッチを食べ、ジローも小さくちぎったパンを嬉しそうに口に運んだ。食後、少し疲れたのか、ジローはベビーカーの中で眠ってしまった。
午後からは、ふれあいコーナーへ向かった。モルモットやウサギなど、小動物に触れることができる場所だ。 「タロー、触ってみる?」たみが尋ねると、タローは少し迷った表情を見せたが、ゆっくりとたみの手を握り、モルモットに近づいた。 飼育員さんが優しくモルモットを差し出してくれた。タローは、恐る恐る指先でモルモットの背中を撫でた。フワフワとした感触に、タローの顔に笑顔が広がった。 「やわらかいね!」 その言葉に、たみはホッと胸を撫で下ろした。あの犬の件以来、動物に触れることを避けていたタローが、自ら触れようとしている。小さな一歩だったが、大きな変化だった。
動物園を出る頃には、すっかり夕暮れ時になっていた。帰り道、車の中でタローは、今日見た動物たちの話を嬉々として語っていた。 「ライオンさん、がおーって言ってたね!」 「ぞうさん、お鼻が長かったね!」 ジローも目を覚まし、「わんわん!」と楽しそうに繰り返していた。
たみはバックミラー越しに、満足そうな子どもたちの顔を見た。今日の動物園は、タローにとって、動物に対する苦手意識を少しでも克服する良いきっかけになったに違いない。
その後、家族で色々な動物園を訪れた。上野動物園では、パンダの可愛さに魅了され、甲府市遊亀公園附属動物園では、コンパクトながらもアットホームな雰囲気を楽しんだ。長岡市悠久山小動物園では、小さな動物たちとの距離の近さに驚いた。
今となっては、どこの動物園で観た象やライオンだったのか、よく分からなくなっている。それぞれの動物園で、子どもたちがどんな表情をしていたのか、どんな言葉を発していたのか、細部はもう覚えていない。ただ覚えているのは、どの動物園へ行った時も、車の中は穏やかな空気で満たされ、子どもたちの笑い声が響いていたことだ。
あの日の日本平動物園での体験は、タローの心に小さな変化をもたらした。完全に動物への恐怖心がなくなったわけではないだろう。でも、動物園で様々な動物と出会い、そしてモルモットに触れた経験は、彼にとってかけがえのないものになったはずだ。
帰りの車中で、タローはすっかり疲れて寝息を立てていた。その寝顔を見ながら、たみは心の中で呟いた。「これで少しは、動物に慣れてくれたかな」。平和なドライブの終わりは、いつも穏やかな幸福感に包まれていた。家族で出かけることの喜び、子どもたちの成長を見守る喜び。それは、何よりも代えがたい宝物だった。あの日の動物園の思い出は、これからも家族の心の中に、温かい記憶として残り続けるだろう。

※この物語はフィクションであり、登場人物や団体名は架空のものです。実在の人物とは一切関係ありません。
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