「ただいまー!」
保育園の門をくぐり、まだ遊び足りない様子のジローの手を引いて家路を急ぐ。時刻は17時過ぎ。西に傾いた陽射しが、マンションの壁に長く伸びた影を落としている。当時36歳の私は、たみ。夫のタダシは2歳下で、子どもは長男のタローが6歳、次男のジローが4歳だ。
タローが保育園の頃から、私たちはスイミング教室に通わせていた。彼は水が大好きで、みるみるうちに上達していった。小学校に入学するタイミングでスイミングは卒業し、入れ替わるようにジローが同じ教室に通うようになった。
ジローは体が弱かった。よく熱を出し、すぐに風邪をひいた。長男が丈夫だったこともあり、余計にジローの体が心配だった。どうにかして健康になってほしい。そう考えて、水泳が最適ではないかと私は直感したのだ。水泳は全身運動だし、喘息にも良いと聞く。何より、水に親しむことで、少しでも自信をつけてくれたら、と願っていた。
スイミング教室は、活気に満ちていた。同じ学年の子どもたちが20人ほど、きゃいきゃいと楽しそうな声をあげていた。バタ足をしたり、浮き輪につかまってふらふら浮いていたり。ジローも最初は戸惑っていたけれど、持ち前の明るさで、すぐに水と友達になった。
スイミング教室に通い始めて半年ほど経った頃、私は待合室でママさん仲間と話すのが楽しみになった。
「たみさん、ジローくん、今日ずいぶん潜れるようになったわね!」
「本当? そうなのよ、最近お風呂でも潜って遊んでるのよ」
そんな他愛のない会話が、忙しい毎日のちょっとした息抜きになった。年齢も子どもの学年もバラバラだけど、子育ての悩みを共有したり、おすすめのレシピを教え合ったり。そんなママさん仲間とは、今も付き合いが続いている。
ある日、ジローが「ママ、見てて!」と、顔を真っ赤にして水中に潜り、ブクブクと泡を出して浮上してきた。その顔には、誇らしげな笑顔が浮かんでいる。その姿を見て、私は胸が熱くなった。
「すごいね、ジロー! 潜れるようになったんだね!」
褒めると、ジローは照れくさそうに笑った。そう、この笑顔が見たかったのだ。水泳を通じて、少しずつ自信をつけていくジローの成長が、何よりも嬉しかった。
ジローのスイミング教室の最終日。今日は夫にも来てもらった。
「ねぇ、タダシ。今日、ジローのスイミングの最終日だから、見に来てくれない?」
私がそう誘うと、夫は一瞬、眉をひそめた。これまで彼は一度もスイミング教室に来たことがなかった。仕事が忙しいというのもあったが、それ以上に、人混みが苦手なのだ。
「えー、俺が行ってもなぁ……」
「いいから! ジローも喜ぶから!」
半ば強引に夫を連れてきたものの、やはり彼は入口で立ち尽くしている。初めての場所に戸惑っているのが手に取るように分かった。
「こっちよ、タダシ!」
私は夫の手を引いて、待合室へと案内した。待合室は、いつものようにママさん仲間で賑わっていた。夫は、その光景にさらに居心地が悪そうに、柱の陰に隠れるようにしてじっと耐えている。
「あら、たみさんのご主人?」
私の友達が、夫に気付いて話しかけてくれた。
「お久しぶりですー」
夫は恐縮したように頭を下げた。友達はしばらく夫と話してくれていたが、すぐに私のもとへ戻ってきて、耳打ちした。
「そうとう緊張してるようね」
私は苦笑いしながら頷いた。人付き合いが苦手だとは思っていたが、ここまでとは。夫は、周りの目を気にするタイプで、特に大勢の人がいる場所では、完全に殻に閉じこもってしまうのだ。普段は穏やかで優しい夫だが、こういう場面では本当に手がかかる。
友達が気を使ってくれていたのに、申し訳ない気持ちになった。それでも、ジローの晴れ舞台を家族みんなで見てあげたい。その一心で、私は夫を連れてきたのだ。
プールサイドでは、子どもたちが最後の練習に励んでいた。ジローは、コーチの指示に従って、一生懸命バタ足をしている。顔には水しぶきがかかり、それでも楽しそうだ。
「ジロー、頑張れー!」
私は大きな声で声援を送った。夫も、柱の陰からではあったが、じっとジローの姿を見つめている。
やがて、練習が終わり、修了証書が手渡される時間になった。ジローは誇らしげな顔で修了証書を受け取り、私たちの方へ駆けてきた。
「パパ!ママ!見て!」
ジローは満面の笑みで、修了証書を掲げた。夫も、いつの間にか柱の陰から出てきて、ジローの頭を撫でていた。その顔には、やはり照れくさそうな笑顔が浮かんでいたけれど、どこかホッとしたような表情も見て取れた。
「ジロー、よく頑張ったね!」
私はジローを抱きしめ、夫もその隣でジローの小さな肩を抱いた。この光景を、夫と分かち合えて本当に良かった。そう心から思った。
スイミング教室を卒業してからも、ジローは風邪をひく回数が減り、体も丈夫になった。何よりも、水泳を通じて得た自信は、ジローの成長に大きな影響を与えたと思う。
あのスイミング教室で出会ったママさん仲間とは、今も連絡を取り合っている。子どもたちの成長を喜び合い、時には悩みを打ち明け、互いに支え合ってきた。夫も、あれ以来、少しずつ人付き合いに慣れてきたようだ。今では、PTAの集まりにも顔を出すようになった。
ジローがスイミング教室に通っていたのは、ほんの数年のことだったけれど、私たち家族にとって、それはかけがえのない時間だった。水泳が、ジローの体を強くしてくれただけでなく、私たち家族の絆を深めてくれたのだから。
これからも、ジローが健康で、笑顔で、自分の道を歩んでいけるように。そして、私たち家族が、互いに支え合いながら、温かい家庭を築いていけるように。私は、そう願っている。

※この物語はフィクションであり、登場人物や団体名は架空のものです。実在の人物とは一切関係ありません。
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