別居五年目の向日葵

庭の向日葵が、今年もまた、私の背丈をはるかに超えて咲き誇っている。鮮やかな黄色は、まるで過去の輝かしい日々を嘲笑うかのようだ。60歳になった私、たみは、冷たい麦茶を啜りながら、物干し竿に揺れる白いシャツを眺める。5年前、タダシがこの家を出ていってから、彼のシャツを洗うのはこれが最後になるかもしれない、と漠然と思っていた。しかし、いつの間にかそれが習慣となり、別居生活は5年目に突入していた。

タダシは2歳年下で、今年で58歳になるはずだ。最後に会ったのは、もういつだったか覚えていない。長男のタローが29歳の時に生まれ、次男のジローが31歳の時に生まれた。今は二人とも独立し、それぞれの家庭を持っている。子供たちが成長するにつれ、私とタダシの間にできた溝は、知らず知らずのうちに深まっていったのかもしれない。

私の名前は「民子」。小説「野菊の墓」の主人公からつけたと、母がよく言っていた。世間知らずで可憐な少女。しかし、私はその名前にずっとコンプレックスを抱いていた。まるで時代に取り残されたような、古風な響き。だから、誰に対しても「民子」ではなく、「たみ」と呼んでくれるよう、いつもお願いしていた。自分の名前が嫌いだった私は、名前に込められた親の想いを理解しようとはしなかった。若かった私は、自分の「こうありたい」という姿に囚われ、周囲の些細な言葉にも敏感に反応した。

タダシの名前は、彼の母親から一字もらったものだと聞いた。彼は「マザコン」と言われるのをひどく嫌がった。その言葉を耳にするたびに、彼は顔を歪ませ、不機嫌になった。私も一度、冗談半分でそう言ったことがあった。その時の彼の表情は、今でも鮮明に覚えている。深い傷つきと、怒りが入り混じったような顔だった。私自身が名前にコンプレックスを持っていたからこそ、彼の気持ちを理解できたはずなのに、その時はまだ、相手の感情に寄り添う余裕がなかった。

結婚してからのことだ。タダシがたまに食器を洗ってくれることがあった。それは、私にとっては珍しいことで、最初は嬉しかった。しかし、彼の洗い方は大変雑だった。水滴はシンクの周りに飛び散り、食器は泡だらけのままで重ねられていた。彼の母親は台所仕事が苦手だったと聞いたことがある。きっと、その影響なのだろうと、私は勝手に納得していた。

ある日、また彼が食器を洗ってくれた時のことだ。私はその雑な洗い方を見て、つい言ってしまった。「タダシ、もう少し丁寧に洗ってくれない?泡が残ってるわよ」その瞬間、彼の顔はみるみるうちにこわばり、やがて真っ赤になった。「俺がせっかく手伝ってやってるのに、文句ばかり言うのか!」彼の怒鳴り声が、台所に響き渡った。私は驚き、そして傷ついた。手伝ってくれたことへの感謝よりも、完璧を求める気持ちが先行してしまったのだ。

今から考えると、あの時のタダシは、不慣れな家事を手伝おうと精一杯努力してくれていたのだ。彼なりの優しさだったのだ。それを、私は無碍にしてしまった。家事を手伝ってくれること自体が、どれほどありがたいことだったか。その時は、全く理解できていなかった。感謝の言葉ではなく、小言を言ってしまった自分を、今でも悔いる。あの頃の私は、すべてにおいて自分の価値観を押し付けがちだった。完璧主義な面があり、それが彼にとっては窮屈だったのかもしれない。

そして、その出来事がきっかけだったのか、タダシは少しずつ、私から距離を置くようになった。最初はちょっとした口論だったものが、いつの間にか口数が減り、視線も合わせなくなった。そして5年前の春、彼は突然、「しばらく実家で暮らす」と言って、家を出ていった。その日から、彼は一度もこの家に戻ってきていない。

別居が始まってから、私は何度も彼に連絡を取ろうとした。電話をしても、メールを送っても、返ってくるのは冷たい言葉ばかりだった。「電車代がもったいない」それが、彼がこの家に戻ってこない理由だった。たかが往復で3千円ちょっとの電車代。そんな金額で、私と彼の関係が断ち切られてしまうのか。そう思うと、胸が締め付けられるようだった。

本当は、もっと違う理由があるのかもしれない。私の言葉が、態度が、彼の心を深く傷つけてしまったのかもしれない。それに気づくまでに、あまりにも長い時間がかかってしまった。今となっては、もう手遅れなのかもしれない。

庭の向日葵は、夕陽を浴びて、ますますその色を濃くしている。私も、あの向日葵のように、真っ直ぐに、彼に向き合っていればよかったのだろうか。

「もっとコミュニケーションを取りたい」

それは、今となっては私の切なる願いだ。彼に会って、直接話したい。謝りたい。そして、もう一度、彼との関係を修復したい。

しかし、どうすればいいのか。彼に会いに実家に行ってみても、会ってくれる保証はない。電話やメールも、もはや通じない壁のようだ。私はただ、彼の連絡を待つしかないのだろうか。それとも、もう一度、私から行動を起こすべきなのだろうか。


過去の影

ある雨の日、私はアルバムを開いた。そこに写っていたのは、若かりし頃の私とタダシ、そして幼いタローとジロー。あの頃の私たちは、確かに幸せだった。写真の中のタダシは、今よりもずっと穏やかな顔をしている。私の隣で、少し照れたように笑っていた。

結婚当初、私はタダシの優しさに惹かれた。彼は口数は多くなかったけれど、いつも私を気遣ってくれた。私が疲れていると、何も言わずに温かいお茶を入れてくれたり、マッサージをしてくれたりした。私は彼のそういう不器用な優しさが好きだった。しかし、いつからだろう。その優しさを、当たり前のように受け取るようになってしまったのは。

私の名前のコンプレックスは、結婚後も私につきまとった。親戚の集まりで「民子ちゃん」と呼ばれるたびに、私は内心で眉をひそめた。タダシはそんな私を理解してくれていたのか、家では「たみ」と呼んでくれることが多かった。彼の優しさに甘えていたのかもしれない。自分の名前に対する劣等感を、彼にまで押し付けていたのだ。

タダシの母親は、昔ながらの専業主婦で、家事全般を完璧にこなす人だった。しかし、台所仕事だけは苦手だったらしい。タダシが実家にいた頃、母親が作った料理は、いつも少し味が濃すぎたり、盛り付けが雑だったりしたと、彼は笑いながら話してくれたことがあった。きっと、彼にとって、母親の料理は愛情の証だったのだろう。完璧ではなくても、そこには確かに母親の愛情が込められていた。

だから、彼が食器を洗ってくれた時の、あの雑な洗い方も、彼なりの「手伝い」だったのだ。母親が苦手な家事を、自分ができる範囲で手伝おうとしていたのかもしれない。彼は、私に喜んでほしかっただけなのだ。なのに、私は彼の努力を認めず、自分の価値観で彼を測ってしまった。

結婚してからの私は、だんだんと自分の理想を彼に押し付けるようになっていった。子育てにおいても、家事においても、私のやり方が「正しい」と信じて疑わなかった。タダシは、そんな私に反論することなく、ただ黙って私の言うことに従うことが多かった。それが、彼を追い詰めていたのだと、今になってようやく理解できる。彼は私を尊重していたのかもしれないが、私の方は彼の意見や感情をあまり聞き入れようとしなかった。

ある時、タダシが会社のことで悩んでいた時期があった。私は彼の話を聞こうとしたけれど、結局は自分の意見を述べ、彼に「こうするべきだ」とアドバイスしてしまった。彼は何も言わなかったけれど、その時の彼の顔は、どこか寂しげだった。彼はただ、私に話を聞いてほしかっただけなのかもしれない。寄り添ってほしかっただけなのかもしれない。

タダシが「マザコン」と言われるのを嫌がっていたことも、今なら理解できる。彼にとって母親は、愛情をくれる存在であり、守りたい存在だったのだろう。その母親から名の一字をもらったことは、彼にとって誇りだったのかもしれない。それを、「マザコン」という言葉で揶揄することは、彼の尊厳を傷つける行為だった。私は、彼の繊細な心に気づいてあげられなかった。

別居してからの5年間、私は自分の過去を何度も振り返った。あの日、あの時、もし私が違う言葉を選んでいたら。違う態度で接していたら。そう思うたびに、後悔の念が押し寄せる。彼は、もう私のことを諦めてしまったのだろうか。


再会の兆し

ある日、タローから電話があった。「母さん、父さんと話したんだ。父さん、少し痩せてたよ。でも、元気そうだった。」タローは、私とタダシの間に入って、何度か連絡を取ろうとしてくれていたらしい。しかし、タダシはなかなか首を縦に振らなかったという。

「父さん、母さんのこと、まだ怒ってるみたいだよ。でも、寂しそうにもしてた。」タローの言葉は、私の心を揺さぶった。彼はまだ、私に怒りを感じているのだろうか。しかし、寂しがっているという言葉に、一筋の希望が見えた気がした。

「タロー、お父さんに、一度会って話したいって伝えてくれる?」私の声は、少し震えていた。

数日後、タローから連絡があった。「父さん、会ってもいいって言ってるよ。でも、外で。家にはまだ戻りたくないみたい。」

胸が高鳴った。5年ぶりの再会。どんな顔をして、彼に会えばいいのだろう。謝罪の言葉を、きちんと伝えられるだろうか。

約束の場所は、駅前の喫茶店だった。私は約束の時間よりも早く着き、窓際の席に座って、来るはずのない彼の姿を探した。緊張で、心臓がバクバク音を立てている。

そして、約束の時間を少し過ぎた頃、店のドアが開いた。そこに立っていたのは、見慣れた、しかし少し老けたタダシの姿だった。彼は、私に気づくと、一瞬、戸惑ったような表情を見せたが、やがてゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。

「…久しぶり」私がか細い声で言うと、彼は小さく頷いた。「ああ」

彼の顔は、以前よりも少し痩せているように見えた。目元には深い皺が刻まれ、白髪も増えている。しかし、その瞳の奥には、昔と変わらない優しさが宿っているように感じた。

私たちは、しばらく沈黙したまま、お互いの顔を見つめ合った。何を話せばいいのか、わからなかった。

私が口を開いた。「タダシ…ごめんなさい。あの時は、本当にひどいことを言ってしまった。家事を手伝ってくれたのに、感謝もせずに…」

私の言葉に、タダシは何も言わなかった。ただ、じっと私の目を見つめている。

「私、ずっと自分の名前にコンプレックスがあって…だから、あなたの名前のことも、理解できなかったの。マザコンだなんて、ひどいことを言って…本当にごめんなさい。」

涙が、私の頬を伝って流れた。5年分の後悔と、彼への感謝の気持ちが、一気に溢れ出した。

タダシは、ポケットからハンカチを取り出し、私に差し出した。その仕草は、昔と何も変わっていなかった。

「もういいよ」彼の声は、思ったよりも穏やかだった。「俺も、言いすぎた。お前が完璧主義なのは知ってたから、俺も少し反発してたんだ。」

彼の言葉に、私はさらに涙が止まらなくなった。彼も、私と同じように、苦しんでいたのだ。

「私、ずっと後悔してたの。電車代がもったいないって、あなたの言葉が…」

タダシは、ふっと小さく笑った。「あれは、俺なりの意地だったんだ。お前が謝ってくれるのを、待ってたのかもしれない。」

彼の言葉に、私の心は温かくなった。彼は、私を突き放していたわけではなかったのだ。

「たみ…俺も、お前と話したいと思ってたんだ。でも、どうすればいいか、わからなかった。」

私たちは、その後、何時間も話し合った。これまでの5年間、お互いが何を思い、どう感じていたのか。誤解していたこと、言えなかったこと。すべてを、ゆっくりと、丁寧に言葉にした。

タダシは、別居中に彼の実家で、母親の介護をしていたことを教えてくれた。母親は、以前よりも体が弱くなり、台所仕事もほとんどできなくなっていたという。彼は、母親の代わりに料理を作り、食器を洗っていたらしい。私がかつて指摘した「雑な洗い方」は、彼の母親が教えてくれたやり方だったのだと、彼は照れくさそうに話した。

「母さんも、料理は好きだったんだ。でも、体が思うように動かなくて…だから、俺が手伝うしかなくて。でも、洗い方なんて、どうでもよかったんだ。母さんが喜んでくれるのが、一番だったから。」

その言葉に、私はまた涙が止まらなくなった。彼が、どれほど母親を大切に思っていたか。そして、その愛情を、私までが否定してしまっていたのだと。

「ごめんなさい…本当に、ごめんなさい。」

タダシは、私の手をそっと握った。「もういいんだ。俺も、お前に頼りすぎてた部分もあった。お前が完璧に家事をこなしてくれるから、俺は甘えていたんだ。」


新たな向日葵

喫茶店を出ると、外はもうすっかり日が暮れていた。駅のホームに向かう途中、私たちは、まるで昔のように他愛のない会話を交わした。

「そういえば、庭の向日葵、今年も綺麗に咲いてるよ。」私が言うと、タダシは少し驚いたような顔をした。「ああ、あれは毎年きれいに咲いていたな。」

「来年は、一緒に見に行こうか。」私が恐る恐る提案すると、タダシは少し考えてから、小さく頷いた。「そうだな。」

彼の返事に、私の心は満たされた。一度壊れてしまった関係は、元に戻すのが難しい。しかし、時間をかけて、ゆっくりと、新たな形を築いていくことはできるのかもしれない。

駅の改札で、私たちは別れた。タダシは、私に背を向け、電車のホームへと歩いていく。その背中が、以前よりも少し大きく見えた。

家に帰って、私は庭に出た。暗闇の中で、向日葵のシルエットがぼんやりと浮かび上がっている。今年は、この向日葵が、私とタダシの新たな始まりを告げる花になるだろう。

私の名前は民子。野菊の墓の主人公のように、世間知らずで、未熟だった私。しかし、タダシとの再会を通じて、私は自分の名前が持つ意味を、ようやく理解できたような気がする。民とは、人々のこと。そして、その人々の中に、私も、タダシも、そして私たちを支えてくれる家族もいる。

タダシの名前は、彼の母親からの贈り物。その名前には、彼が大切にする愛情が込められている。そして、これからは、その愛情を、私も共に分かち合っていきたい。

別居生活は、まだ終わってはいない。しかし、今日という日を境に、私たちはまた、コミュニケーションを取り始めた。電車代がもったいない、なんて、もう言わせない。たかが3千円の電車代で、大切な人を失うなんて、もう二度とごめんだ。

向日葵の種が、再び土に蒔かれるように。私たちも、また新たな種を蒔き、これからの日々を育んでいこう。時間はかかるかもしれない。しかし、きっと、いつかまた、あの頃のように、互いを思いやり、支え合うことができるだろう。

私たちは、まだ物語の途中なのだ。これから、どのように変化していくのだろうか。少し、続きが自分事ながら気になっている。

気が利かないな

※この物語はフィクションであり、登場人物や団体名は架空のものです。実在の人物とは一切関係ありません。
※このブログは 電話占い【ココナラ】 もう、一人で悩まないで の提供でお送りしています。



おすすめ記事